続き
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
ゴルトベルク変奏曲 BWV988
ヴィルヘルム・ケンプ 61分03秒
Deutsche Grammophon 1969年7月録音
他のCDに比べて録音年が古いし,最近のピアニストに比べると技巧的に聴き劣りがするような気がして取り上げるのを止めてしまったのだけれど,やっぱりご紹介しておきます。ベートーヴェンやシューベルトが評判の良いケンプだけれど,バッハが最高なのかもしれません。ネタバレになってしまいますが,冒頭のアリアの装飾音の少なさに驚きます。後述のセルゲイ・シェプキンの対極にある演奏。ごつごつしたタッチで,ひとつひとつの音をしっかり弾いていくタイプ(たどたどしいときもあるけれど)。全然スマートじゃないんですが,刺々しいところがなくて肌触りが良いです。テクニックに耳を奪われることがないので,結果として音楽が心に沁みます。そして,音(音楽)が暖かいので,心が温まるような錯覚を覚えます。ゴルトベルク変奏曲の,最も崇高な演奏といったら褒め過ぎでしょうか。
マリア・ティーポ 63分42秒
EMI CLASSICS 1990年6月録音
マリア・ティーポについて検索すると,このブログが出てくるというぐらい,今ではあまり聴かれなくなってしまった人。どうしようかと迷ったけれど,ディアパソン・ドール賞受賞の名盤ですし,うちが取り上げずして誰が取り上げるということで書きます。録音のせいもあって,まず繊細な印象があります。そしてピアノの音色が実に愛らしく,とても美しい。微妙なルバートが若干古めかしいですが,ロマンティックでもあります。夜更けにステレオのヴォリュームを絞って聴いたらムード満点かもしれません。以前記事にしたティーポのバッハ5枚組が廃盤なのはもったいないです。もっと,聴かれてよい素敵な演奏なんですけれど,これだけ海千山千のゴルトベルク変奏曲が出てしまうと,主張が弱いと感じられるのもしれません。
アンドレイ・ガヴリーロフ 74分19秒
Deutsche Grammophon 1992年9月録音
これを初めて聴いたときは,快演という二文字が浮かびました。ゴルトベルク変奏曲をピアノで弾いている演奏は特に珍しくもない(そのほうが多いですよね?)のですが,これほどピアノ(で弾いているということ)を意識させる演奏もないと思います。ここに聴くガヴリーロフのピアノはとても見事なもので,それを聴いているだけで耳にご馳走です。時間が経つのを忘れて聴き入ってしまいますが,それはテクニック一辺倒の演奏ではないから聴き続けることができるのです。ガヴリーロフというと,超難曲を豪快にバリバリ弾くイメージがあり,このCDでも曲によってはそれもありますが,このバッハは素晴らしいと思います。技巧だけでなく,ガヴリーロフの音楽性の最も良い面が出せた録音ではないでしょうか。彼の代表盤と言っても差し支えないのではないか,と。
熊本マリ 53分11秒
FIREBIRD 1993年8月録音
グレン・グールドに「あなた以外,自分自身の才能と感性を判断できるものはいない。自分自身を信じなさい」という言葉をもらった熊本マリが「自然に感じたまま,二十八年間の自分というもの全てを,音に表現できた」という演奏であり録音。これはあまたあるゴルトベルク変奏曲の録音の中でも特別に素晴らしい1枚と断言できます。彼女はこの曲を録音するにあたり,周到に準備を重ね,ライナーの冒頭にグールドの言葉を掲げるに恥じない演奏をしようと決意したのではないでしょうか。叙情的な表現が多いのですが,1曲1曲に熊本マリの気迫が感じられ,精魂込めて演奏されており,そこから紡ぎだされる一音一音が実に魅力的です。彼女の他の録音はあまり(というかほとんど)聴いていないけれど,熊本マリが非凡なピアニストであることをこのCDが改めて教えてくれました。
コンスタンチン・リフシッツ 79分02秒
DENON 1994年6月録音
これを聴いていると,若いって素晴らしいなと思います。リフシッツはこの曲を16歳のときからさらい始め,18歳のときの卒業試験で弾き,その3日後の録音だそうです。全体に瑞々しい感性が息吹いています。少々乱暴と感じられるときがないでもないけれど,恐れを知らないというか,自分の思うがままに弾き進めて行きます。一気呵成に弾き上げたというか,演奏に勢いがありますね。それが全く違和感なく普遍性を持って聴こえて来るのが好ましいと思いました。深みが無いと思う人がいるかもしれないけれど,元気が出る演奏で個人的には好きな演奏です。なお,Orfeoへの再録音(2005年)は未聴ですが,リフシッツがどのような成長を遂げたのか聴いてみたいです。
セルゲイ・シェプキン 71分54秒
Ongaku Records 1995年1月録音
冒頭のアリア,美しい演奏だなぁと思って聴いていると,そのうちあれれ?と思うようになり,最初に聴いたときは,目が点になったというか,驚きました。ここまで好きに弾くのはいかがなものだろうかと,保守的な私はささやかな抵抗感を覚えたものです。今さら私ごときが書くまでもないのですが,まず,過剰ではあるけれど,センスの良い装飾音がユニークですし,ピアノの特長を最大限に生かしきった,(楽譜に手を入れることも厭わない)豊かで大胆な表現力には説得力がありますね。シェプキンには2008年の再録音もあって,そちらも聴かなければと思っているのですが,この旧録音で,もういいやという気持ちも正直なところあります。でも,ゴルトベルク変奏曲が大好きな人には必聴盤でしょう。
エフゲニー・コロリオフ 85分13秒
Hanssler 1999年4月録音
CD2枚組です(※リピートを励行しても1枚に収まる演奏はあります)。ピアノを弾く人は弾かない人と少々違った感想をもつと思うのですが,この演奏はピアノを弾く人に好まれる演奏ではないでしょうか。いや,繰り返しをきちんと守っているとか,そういうことではなくて,なんだろう,とにかく完璧なのです。どこを取っても。ゴルトベルク変奏曲を自分で弾いてみたいと考える人にとって,この演奏はひとつの理想だと思うのです。各声部のバランスの良さ,特にバスがはっきり聴こえるのがありがたいと思うし,装飾音が自然でいやらしさがないし,ピアノの音がきれいだし,とにかく巧い。見事なバッハです。リゲティが「もし無人島に何かひとつだけ携えていくことが許されるなら,私はコロリオフのバッハを選ぶ。飢えや渇きによる死を忘れ去るために,私はそれを最後の瞬間まで聴いているだろう」と言ったのもわかるような気がします。
マレイ・ペライア 73分27秒
Sony Classical 2000年7月録音
ずばり,今回の本命は,このペライア盤と次のシフ盤だと思っていました。予選の段階ではシフが優勢で,シフを聴いた後ではペライアは形勢不利と感じたのですが,改めて聴き直してみると,やっぱりペライア盤のほうが上かな。シフ盤は変奏によってアクがあり,その点,ペライア盤のほうがより万人向けというか,より普遍的であるように思います。それに,弱音がとてもきれい。じゃあこの演奏が究極のゴルトベルクかと言われると素直に首を縦に触れません。ピアノ演奏における到達点だと思うのですが,これ程の名曲ともなると,これもひとつの解でしかないような気もするのです。ゴルトベルク変奏曲は一筋縄ではいかない,それだけ奥が深い曲ということなのでしょう。
アンドラーシュ・シフ 71分11秒
ECM 2001年10月ライヴ
名曲名盤本を眺めると,バッハの鍵盤楽曲のピアノ演奏は,いずれもグレン・グールド盤が決定盤なのですが,2位はシフのDECCA盤であることが多いです。例外は平均律クラヴィーア曲集とゴルトベルク変奏曲。前者はリヒテルやグルダの録音がありますし,後者はペライア盤その他の評価が高いのです。でも,私はシフの,この再録音盤が結構気に入っています。ゴルトベルク変奏曲のピアノによる録音では最も完成度の高い演奏のひとつではないでしょうか。このくらいの水準になると,ペライア盤とどちらが良いとは簡単には言えなくなってしまいます。変奏によっては,あのピアニストが良かったなぁとか,シフ独特の癖のようなものが気になったりもしますが,それでも総合的にはこのCDはトップクラスでしょう。録音が私の好みということもありますしね。
高橋悠治 36分48秒
DENON 1976年10月録音
今回取り上げたCDはいずれも1990年以降の比較的新しい録音ばかりなので,このCDはどうしようか迷ったのですが,この機会に新旧盤を聴き比べてみたいという気持ちが勝りました。高橋悠治のゴルトベルク変奏曲というと,新録音が発売されて以来,そちらばかりが話題になっていますが,この旧録音も大変魅力的です。最初に聴いたときには結構ショックを受けました。それまではグールドばかり聴いていたのですが,この曲のそれまで気がつかなかったいろいろな魅力を教えられた気がします。早めのテンポによるノン・レガートの演奏は,ごつごつした肌触りですが小気味良く,作曲家によるピアノだからか,理知的・分析的。でも,けして無味乾燥な演奏じゃないんですよ。繰り返しを全て省略しているので36分48秒で駆け抜けます。
高橋悠治 42分47秒
AVEX CLASSICS 2004年7月録音
時は流れて28年後のゴルトベルク変奏曲。がらっと変わってしまって,別人のようだけれど,紛れも無く高橋悠治の演奏そのもの。これを聴くと1976年は試行錯誤しながら弾いている部分があったようにも感じます。この演奏はいろいろな束縛から開放され,もっと自由で伸びやかです。ゴルトベルク協奏曲もいろいろな演奏があり,中にはとてもユニークな録音もありますが,このCDを聴くと,そういった演奏は小手先の技術でしかないようにも思われてしまいます。ゴルトベルク変奏曲というと,すぐにグレン・グールドの演奏が思い浮かびますが,これはそれに唯一伍する演奏ではないかと思いました。この演奏の含蓄の豊かさは比肩するものがありません。バッハの言葉を借りて高橋悠治が語っているよう。
追記:文字サイズを12ptに上げてみました。このほうが読みやすいですかね?
追記2:ケンプ盤を追加しました。