「トリスタンとイゾルデ」のような、オペラ史上最も革新的で、後世の芸術に大きな影響を与えたといわれる作品を聴き比べのは気が引けます。ここに取り上げた録音はいずれも名演ですので、歌手や指揮者のお好みでどうぞと言って終りにしたいくらい。Wikipediaによると演奏時間は4時間弱で、とても5日間で全てのCDを聴くことはできません。数年前に聴いた記憶を引き出しながら書いてみたいと思います。
リヒャルト・ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」
①
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
フィルハーモニア管弦楽団
コヴェントガーデン王立歌劇場合唱団
(合唱指揮:ダグラス・ロビンソン)
イゾルデ:キルステン・フラグスタート
トリスタン:ルートヴィヒ・ズートハウス
ブランゲーネ:ブランシュ・シーボム
クルヴェナール:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
マルケ王:ヨゼフ・グラインドル
メロート:エドガー・エヴァンス
牧童・若い水夫:ルドルフ・ショック
舵手:ロデリック・デイヴィス
1952年6月10-21、23日
ロンドン、キングズウェイ・ホール
この演奏は、私にとって2つの大きな魅力があります。ひとつは、イゾルデがキルステン・フラグスタートであること、もうひとつはフルトヴェングラーの指揮であることです。
フラグスタートは20世紀前半の、最高のワーグナー・ソプラノです。この録音のときは(まだ)57歳で全盛期を過ぎているとはいえ、この録音でも張りのある凛とした、品格のある声で最高のイゾルデを聴かせてくれます。その他の歌手も理想的で立派な歌唱です。
この録音は当然ステレオではありませんが、きれいな音でフルトヴェングラーの演奏を聴けるのはありがたいことです。宇野功芳さんはあまり褒めていませんでしたが、重厚かつ濃厚で彫が深い名演だと思います。聴き終えたときのずっしりと心に残る演奏は、他からは得られないものです。
②
サー・ゲオルク・ショルティ
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン楽友協会合唱団
(合唱指揮:ラインホルト・シュミット)
イゾルデ:ビルギット・ニルソン
トリスタン:フリッツ・ウール
ブランゲーネ:レジーナ・レズニック
クルヴェナール:トム・クラウセ
マルケ王:アルノルト・ヴァン・ミル
メロート:エルンスト・コツープ
若い水夫:ヴァルデマール・クメント
牧童:ペーター・クライン
舵手:テオドール・キルシュビヒラー
1960年9月
ウィーン、ゾフィエンザール
「指環」全曲を行うためにビルギット・ニルソンと契約したDECCAですが、彼女が出した条件はまず「トリスタンとイゾルデ」を録音することでした。それにより「ジークフリート」に先立ってこの演奏が録音されました。3週間休みなしで行われたセッションで、ショルティは完全に消耗してしまったそうでうです。とはいえ、けしてやっつけ仕事ではなく、これは名演です。
ニルソンはさすがの歌唱です。意外にも彼女Y唯一の「トリスタン」のセッション録音となりましたが、自分の芸術を残すためにベストを尽くしたかったのでしょう。そういう気構えが聴こえます。圧倒的な声圧と、どんな場面でも美しくさを失わない歌唱は見事です。
その他の歌手も、ウールのトリスタンをはじめ、この頃のDECCAが揃えられる最上の歌手陣です。
ショルティ&ウィーン・フィルの演奏も劇的であり、リリシズムも十分、特にラストの荘重さが心を打ちます。
③
カール・ベーム
バイロイト祝祭管弦楽団
バイロイト祝祭合唱団
(合唱指揮:ヴィルヘルム・ピッツ)
イゾルデ:ビルギット・ニルソン
トリスタン:ヴォルフガング・ヴィントガッセン
ブランゲーネ:クリスタ・ルートヴィヒ
クルヴェナール:エーベルハルト・ヴェヒター
マルケ王:マルッティ・タルヴェラ
メロート:クロード・ヒーター
若い水夫:ペーター・シュライアー
牧童:エルヴィン・ヴォールファールト
舵手:ゲルト・ニーンシュテット
1966年7月(ライヴ)
バイロイト祝祭劇場
ニルソンのイゾルデで、ヴィントガッセンのトリスタンという理想の主役です。
指揮はベームで、「トリスタンとイゾルデ」の名盤として愛され続けてきた演奏です。
ヴィントガッセンの声は摩耗しておらず、瑞々しい若さを保っていますが、トリスタンはバリトン寄りの声のほうがふさわしいように思い、少し違和感もあります。
ライヴだから、ニルソンはショルティ盤よりも感興に任せて自由に歌っており、ステレオ録音で聴く最高のイゾルデです。
ベーム指揮のオーケストラも迫力満点、白熱的で、一心不乱に演奏し、音楽がぐいぐい進んでいきます。ライヴのベームは人が変わったようにすごいです。
脇役も申し分がないというか、最上の人達で、この年に亡くなったヴィーラント・ワーグナーの演出ということもあり、この時代のベストを記録した貴重な録音でしょう。
④
ヘルベルト・フォン・カラヤン
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
(合唱指揮:ヴァルター・ハーゲン=グロル)
トリスタン:ジョン・ヴィッカーズ
イゾルデ:ヘルガ・デルネシュ
ブランゲーネ:クリスタ・ルートヴィヒ
クルヴェナール:ヴァルター・ベリー
マルケ王:カール・リッダーブッシュ
メロート:ベルント・ヴァイクル
牧童・若い水夫:ペーター・シュライヤー
舵手:マーティン・ヴァンティン
録音時期:1971年12月、1972年1月
録音場所:ベルリン、イエス・キリスト教会
「トリスタンとイゾルデ」は最もカラヤンの音楽性に適したオペラのはずです。
カラヤンは、1938年のベルリン国立歌劇場における「トリスタンとイゾルデ」により、批評家に「奇跡の人」と称賛され、国際的に認められるようになりました。カラヤンにとって「トリスタン」は出世の機会を与えてくれたオペラですが、果たしてカラヤンにそのような認識があったでしょうか。
この録音は不思議です。管弦楽はいつものベルリン・フィルの輝かしくダイナミックで洗練美の極致のサウンドなのですが、良くも悪くもカラヤンの姿が見えて来ません。
イゾルデのデルネシュは悪くない(どころか立派な歌唱な)のですが、ショルティ盤やベーム盤のニルソン、クライバー盤のマーガレット・プライスと比べて、やや中途半端な印象を受けます。ちょっと陰のある声質はイゾルデにふさわしいのですが、元来リリックな人なのでちょっとつらそうです。
ヴィッカーズはカラヤンが重用したテノールですが、ベルリン・フィルに埋もれない強靭な声を聴かせます。独特な声ですが、確かにこの人はヘルデン・テノールであったのだなと納得の歌唱。
実は、私が一番好きな登場人物はクルヴェナール(トリスタンの従臣)なのですが、この録音のヴァルター・ベリーが一番しっくりきます。
脇役は豪華な歌手陣です。でも、この演奏には何かが足りない。イゾルデが強力なワーグナー・ソプラノであったら印象が変わったかも?
⑤
ヘルベルト・フォン・カラヤン
バイロイト祝祭管弦楽団
バイロイト祝祭合唱団
(合唱指揮:ヴィルヘルム・ピッツ)
イゾルデ:マルタ・メードル
トリスタン:レーモン・ヴィナイ
ブランゲーネ:イーラ・マラニウク
クルヴェナール:ハンス・ホッター
マルケ王:ルートヴィヒ・ウェーバー
メロート:ヘルマン・ウーデ
若い水夫:ゲルハルト・アンガー
舵手:ゲルハルト・ストールツ
羊飼い:ヴェルナー・ファウルハーバー
1952年7月23日(ライヴ)
バイロイト祝祭歌劇場
このCDは持ってないですし、聴いたこともありません。理由は値段がやや高いことと、録音が悪そうだからです。参考盤としてここに留めておきたいと思います。④は1971~72年というカラヤン&ベルリン・フィルの全盛期に録音されたのに、ちょっと納得できない、というか、物足りなさを覚えます。それで、歌手陣がより強力なこの録音を聴いてみたいのです。クルヴェナールがハンス・ホッターですから、それだけでも聴く価値はあると思うのです。
⑥
カルロス・クライバー
シュターツカペレ・ドレスデン
ライプツィヒ放送合唱団
(合唱指揮:ゲルハルト・リヒター)
トリスタン:ルネ・コロ
イゾルデ:マーガレット・プライス
ブランゲーネ:ブリギッデ・ファスヴェンダー
クルヴェナール:ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ
マルケ王:クルト・モル
メロート:ヴェルナー・ゲッツ
若い水夫:ヴォルフガング・ヘルミヒ
牧童:アントン・デルモータ
舵手:エーバーハルト・ビュヒナー
1980年8&10月、1981年2&4月、1982年2&4月
ドレスデン、ルカ教会
ずいぶん時間をかけて録音されたワーグナーです。クライバーは1974,75,76年のバイロイトで「トリスタンとイゾルデ」を指揮していますので、得意のレパートリーになっていたのでしょう。
クライバーの指揮は、細かいところまで神経が行き届いて表情豊かで、しかし音楽が小さくまとまらず、ダイナミックで新鮮で、聴く都度新しい発見があって……。
ディースカウのクルヴェナールは、フルトヴェングラー盤以来ですが、巧いことは巧いです。けれど知的過ぎて、猪突猛進な猪武者クルヴェナールには違和感があります。
ルネ・コロのトリスタンはノーブルな美声で、うっとりと聴き惚れるところも多いのですが、もう少し低音が豊かで声に張りがある。バリトンっぽい人のほうがトリスタンにふさわしいと思います。
マーガレット・プライスのイゾルデは、クライバーの希望による起用だそうですが、なんと可憐なイゾルデでしょう。モーツァルトのオペラから抜け出てきたかのよう。レコードならではの配役です。
⑦
レナード・バーンスタイン
バイエルン放送交響楽団
バイエルン放送合唱団
(合唱指揮:ハインツ・メンデ)
トリスタン:ペーター・ホフマン
イゾルデ:ヒルデガルト・ベーレンス
ブランゲーネ:イヴォンヌ・ミントン
クルヴェナール:ベルント・ヴァイクル
マルケ王:ハンス・ゾーティン
メロート:ヘリベルト・シュタインバッハ
牧童:ハインツ・ツェドニク
水夫:トマス・モーザー
舵手:ライムント・グルムバッハ
1981年2月,4月,11月(ライヴ)
ミュンヘン、ヘルクレスザール
未購入・未聴。演奏時間は266分で4時間26分。「トリスタンとイゾルデ」の平均タイムを30分も上回ります。聴く前から怖気づいてしまって、未購入のうちに廃盤になってしまいました。タワーレコード限定で昨年から販売されているのですが、なかなか食指が動きません。でも、避けては通れない道なので、忘れないようにここに取り上げておきます。吉田秀和先生も褒めていたみたいですし。
⑧
アントニオ・パッパーノ
コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団
コヴェント・ガーデン王立歌劇場合唱団
(合唱指揮:レナート・バルサドンナ)
トリスタン:プラシド・ドミンゴ
イゾルデ:ニーナ・ステンメ(シュテンメ)どっち?
ブランゲーネ:藤村実穂子
クルヴェナール:オラフ・ベーア
マルケ王:ルネ・パーペ
メロート:ジャレド・ホルト
若い水夫:ロランド・ヴィリャソン
牧童:イアン・ボストリッジ
舵手:マシュー・ローズ
2004年11月23日~2005年1月9日
ロンドン、アビーロード第1スタジオ
指揮者のパッパーノは、バイロイトでバレンボイムのアシスタントを務め、自身も「ローエングリン」でデビューしており、ワーグナーの実績はバッチリです。の名匠達に比べると、物足りなさは否めませんが、歌手の引き立て役としては申し分ないと思います。
トリスタンはドミンゴですが、名前を伏せて聴いたらわからないかもしれません。個人的には今回聴いた中では最高のトリスタンではないかと思っています。弱音の柔らかい声、跫音の輝かしさ、まさにブロンズの響きです。高音がちょっと苦しいところやドイツ語の子音が足りないことなど、小さな問題です。
ニーナ・ステンメは、劇場で聴いてみたい人。2003年のグラインドボーン音楽祭でイゾルデを歌って大成功を収めたそうですが、これはその直後の録音です。今のステンメはさらに声が強くなっているそうなので、ブリュンヒルデを聴いてみたいとろこです。録音で聴く限り、古の名歌手に引けは取っていないように思えるのですが。
藤村実穂子のブランゲーネ、ベーアのクルヴェナールも良い仕事をしています。